タイトルコード |
1000100853822 |
書誌種別 |
図書 |
書名 |
寺山修司の写真 |
書名ヨミ |
テラヤマ シュウジ ノ シャシン |
言語区分 |
日本語 |
著者名 |
堀江 秀史/著
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著者名ヨミ |
ホリエ ヒデフミ |
出版地 |
東京 |
出版者 |
青土社
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出版年月 |
2020.11 |
本体価格 |
¥2400 |
ISBN |
978-4-7917-7326-8 |
ISBN |
4-7917-7326-8 |
数量 |
332p |
大きさ |
19cm |
分類記号 |
910.268
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件名 |
写真
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個人件名 |
寺山 修司 |
注記 |
年譜:p322〜327 |
内容紹介 |
既成の芸術ジャンルに囚われることなく活動した寺山修司にとって、特別な意味をもっていた写真。東松照明、中平卓馬、森山大道、篠山紀信、荒木経惟らとの交流を辿り、寺山にとっての「撮る」ことの意味を問う。 |
著者紹介 |
1981年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化コース助教。専門は戦後日本の映像文化・メディア論など。著書に「寺山修司の一九六〇年代」など。 |
目次タイトル |
序章 寺山写真研究の現在 |
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一 寺山と写真 二 本書の構成と目的 |
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第Ⅰ部 寺山修司と写真-一九六〇年代日本写真の伴走者 |
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第一章 写真における<ダイアローグ>-時評「カメラによって“何を燃やす”」(一九六七年) |
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一 写真批評に見る<ダイアローグ>の理念 二 「無言劇」の黙示-中平、森山、寺山 三 三人の出会いとその仕事-一九六六年まで |
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第二章 一九六〇年代写真界との理念の共有 |
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一 <ダイアローグ>と中平卓馬 二 匿名という戦略-東松照明「I am a king」から「新宿」へ |
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第三章 開かれた書物-単行本『街に戦場あり』(一九六八年)の違和感 |
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一 三つの連載-「ショウの底辺」、「街に戦場あり」、「世界の街角で」 二 <ダイアローグ>の功罪-横山明の介入 |
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第四章 森山大道との緩やかな別れ-写真ジャンル論と方法の重複 |
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一 処女写真集『にっぽん劇場写真帖』(一九六八年)の出版 二 寺山の読みの正当性-<大衆演芸>というテーマ 三 森山の選択-「等価」の思想 |
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第五章 中平卓馬との理念的決別-写真家と被写体の関係を巡って |
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一 自己批判の内実-「なぜ、植物図鑑か」精読 二 寺山の書評-現実か幻想か |
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第六章 「無言劇」の示したもの |
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一 「見るものと見られるもの」のその後 二 ボクシングの予言 |
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第Ⅱ部 寺山修司の写真-半写真家の仕事 |
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第七章 寺山写真の行方 |
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一 <私>という主題-『幻想写真館犬神家の人々』(一九七五年)の成立 二 ヨーロッパに於ける展開-映像誌『ズーム』での活動その他 三 自虐する半写真家 |
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第八章 さらなる境地へ-仮想敵としての篠山紀信 |
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一 果たされなかった企画 二 劇の写真-『篠山紀信と28人のおんなたち』(一九六八年) 三 『ガリガリ博士の犯罪画帖』(一九七〇年)で生じた亀裂 四 篠山の転機としての一九七〇年代 五 「激写」の<ダイアローグ> |
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第九章 噓と<ダイアローグ>-写真集『犬神家の人々』(一九七五年)を読む |
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一 写真の機能-記録と複製への反発 二 《母地獄》を読む |
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終章 再び、「街に戦場あり」の三人について |