タイトルコード |
1000100375057 |
書誌種別 |
図書 |
書名 |
視覚都市の地政学 |
書名ヨミ |
シカク トシ ノ チセイガク |
|
まなざしとしての近代 |
言語区分 |
日本語 |
著者名 |
吉見 俊哉/著
|
著者名ヨミ |
ヨシミ シュンヤ |
出版地 |
東京 |
出版者 |
岩波書店
|
出版年月 |
2016.3 |
本体価格 |
¥4900 |
ISBN |
978-4-00-061086-5 |
ISBN |
4-00-061086-5 |
数量 |
10,468,27p |
大きさ |
22cm |
分類記号 |
361.78
|
件名 |
都市-歴史
東京都-歴史
|
注記 |
文献:巻末p8〜27 |
内容紹介 |
盛り場、百貨店、映画館、街頭テレビ、テレビのある茶の間、ディズニーランド…。都市・東京を舞台に、<まなざしとしての近代>はいかに生成・増殖し、変容したのか。吉見都市論の集大成。「都市のドラマトゥルギー」の続編。 |
著者紹介 |
1957年東京都生まれ。東京大学大学院情報学環教授。著書に「都市のドラマトゥルギー」「大学とは何か」ほか。 |
目次タイトル |
序章 眼・群集・都市 |
|
一 まなざしとしての近代 二 まなざしの場としての都市 三 規律化と都市のスペクタクル 四 都市の夢と遊歩者のまなざし 五 メディアに溶解する都市のまなざし |
|
Ⅰ 拡大するモダニティ |
|
第Ⅰ章 帝都東京とモダニティの文化政治 |
|
一 大正文化研究とモダニティの文化政治 二 帝都復興のなかのモダン都市 三 モダン都市が照明する性 四 帝国を恐怖する帝都 五 世界的同時性と超克/衝突するモダニティ |
|
第Ⅱ章 近代空間としての百貨店 |
|
一 モダニティの劇場 二 博覧会と百貨店のあいだ 三 室内化する街頭の音楽 四 ポスターが構図化する女性たち 五 群集の場としての百貨店 六 百貨店と消費の権力工学 |
|
第Ⅲ章 映画館という戦後 |
|
一 爆発する映画館 二 盛り場とアミューズメントセンター 三 五〇年代都市の映画館観客とは 四 工場地帯の労働者家族と映画館 五 映画館、街頭テレビ、紙芝居 |
|
補論1 占領地としての皇居 |
|
Ⅱ 飽和するモダニティ |
|
第Ⅳ章 テレビが家にやって来た |
|
一 テレビのある戦後 二 力道山と路上のオーディエンス 三 街頭テレビという劇場 四 空手チョップからミッチー・スマイルへ 五 テレビが家にやって来た 六 ナショナルな時間/ナショナルな物語 |
|
第Ⅴ章 メイド・イン・ジャパン |
|
一 「茶の間」から「リビング」へ 二 国土の電化から家庭の電化へ 三 「主婦」というまなざしの主体=客体 四 誇り高きメイド・イン・ジャパン 五 インテリアにおける「和風」 六 境界侵犯、あるいは「家電」の終焉 |
|
第Ⅵ章 テレビ・コマーシャルからの証言 |
|
CMへの視座とアーカイブの未来 女性イメージの転換 動物のイメージ/外国人のイメージ 物語化と過去へのまなざし 映像的に編集される現実と現実への回帰 一九七〇年の転換と一九九五年の転換 CMアーカイブからの戦後文化史 |
|
第Ⅶ章 シミュラークルの楽園 |
|
一 東京ディズニーランドの出現 二 日本のなかの「アメリカ」 三 俯瞰するまなざしの消失 四 スクリーンとしての空間 五 「フロンティア」の時間 六 植民地化された<外部> 七 飽和する近代の「王国」 八 ディズニーランド化する社会 |
|
補論2 空から見た東京 |
|
Ⅲ 認識するモダニティ |
|
第Ⅷ章 都市の死 文化の場所 |
|
一 都市の再生とは何か 二 都市の爆発と死 三 都市は文化の場所でありえるか 四 死に向かうポストモダン東京? |
|
第Ⅸ章 都市とは何か |
|
一 都市の消失/都市的なるものの氾濫 二 初期シカゴ学派と異質性の場としての都市 三 都市イデオロギー批判と「空間」の生産 四 都市記号論とテクストとしての都市 五 まなざし/感覚の集合的な場としての都市 |
|
終章 戦後東京を可視化する |
|
一 上空から東京をまなざす 二 路上から東京をまなざす 三 まなざしの増殖と飽和 四 再び、戦後東京と他者のまなざし |